午前三時の妄想(続き)

駄文。頭に思い浮んだ情景をただ綴ってみる。フィクションです。

心のない写真

すれ違う人の顔つきが、ようやく分かるほどの暗がりに、幾つかの写真が転々と浮かんでいる。白熱電球を模した色のその光線は、ただ目の前の一枚のモノクロ写真だけを静かに照らしていた。水平線が見える。そこに1軒の廃屋。ただそれだけの写真だ。陸よりも、海そのものよりも、空だけが大きく見えるその写真。タイトルには『失ったもの』とだけ書かれている。撮影したのは私だ。生まれ育った故郷に里帰りするときに車窓から見えた景色を、ただ無心に切り取った。夫はこれを見て「心がない」とだけ言った。私には彼の言わんとしたことが分かる気がする。限りなく短い彼の言葉を補うなら、心が強く抑圧されている写真、ということだろうか。見るものに、撮影する者の心の在り処を伝えないほどに、抑圧された心で撮影された写真。抑圧されたその心の、奥底にあったのは、悲しみだろうか、嘆きだろうか。それすらも、見る方にはわからないだろう。私ですらよくわからないのだ。ふるさとから帰ってきて、帰省の間に撮影した写真をパソコンに移している最中、サムネイルに小さく表示されたその写真に、私は赤の他人のように見入ってしまった。深層心理が切らせたシャッターの効果なのだろうか。それは私が撮影した、他のどの『被災地の写真』よりも、被災地そのものを写していた。

 

企画展に参加することを勧めてくれたのは、夫の友人で、私もかねてから知っていた成瀬さんという方だった。同郷ではないもの、彼女も東北の沿岸部の出身で、東北各地で撮影された写真を集めて、西日本で写真展をやろうと奔走していたらしい。

「ちょうど、こういうのが欲しかったんです」彼女は、彼女の方に向けられた私のノートパソコンを覗き込みながら、快活な笑みを浮かべて、言った。「みんなが里帰りすれば、必ず、被災地の写真を取ってくると思ってて。そういう写真は、他の誰が撮ったものより、被災地そのものを映してると思うんですよね」

彼女はそう言いながらも、タッチパットを器用に操り、するすると写真を閲覧していく。「そう、まさにこれ」そう言って彼女は画面から目を大きく離し、見下ろすような格好になって、目を大きく見開いた。「この空気感、失礼だけど他の土地の方にはだせません」彼女が示していたのは、私の、あの写真だった。

「夫は、『心がない』写真だって言ってました」私は照れくさくなってそう言った。

「心が?加藤さんも、ひどいこと言う」彼女はどうしたものかというように、笑っていたが、「彼らしい表現ですが、的を得ている」そう付け加えた。

「私もそうおもいます」私は言った。「...こういう写真で良ければ、是非」

「ええ、願ったり、かなったりです」彼女はまた快活に微笑んだ。「待っててください。小規模でも、ちゃんとやりますから」

ひと月後、彼女の選んできたギャラリーは、確かに小規模なものだった。何もないギャラリーに通された時、こんな小さいところで、どれだけの写真が飾れるのだろうと不安に思うほどだった。

「まだ全然何も入ってないので、ちょっと実感湧いてないんですが」彼女は言った。「悪くない場所が借りれました。ここなら駅からも近いし、喫茶店も併設してる。お客さんは、自然と流れてくるでしょう」

ここに間仕切りを置き、そこをスポットライトで照らして...、などと彼女は間取りの概要を私に熱心に語ってくれたが、私にはほとんど頭に入ってこなかった。キラキラと磨き上げられた明るいフローリングの床と、漆喰色の壁に、私の写真が飾られる様子を私は頭に思い描いていた。

 

展覧会が始まり、私はひとしきり他の方の写真も見たものの、気になっていつも私の写真のに目を向けていた。どの写真にも、じっと見入る方がいて、どの写真を見つめるかは、本当に人それぞれだった。写真は、まるで人の心理を選別するフィルターのように、その場に吸い付く人を選ぶ。どの写真の前で立ち止まるかは、そのまま、その見る人の心のありようを映しているのではないかと、私は感じた。

 一番奥の、家族みんなで微笑む雪の中の写真の前には、二人の若いカップルが手をつないで立っていた。彼の方は、彼女の表情が気になってならないらしく、しきりに気にする素振りを見せているが、彼女の方はそれにも気づかないほど、写真の中央のおばあさんの表情に見入っていた。 

老夫婦は、被災地に咲くひまわりの写真を気に入ったようだった。とくにおじいさんの方は、しきりに真ん中のひまわりを指さして、隣の小柄なおばあさんに、何かを言っている。おばあさんは、もう随分目が悪い様子で、細くなった目をさらに細めて、おじいさんの指差す先の美しいひまわりを追いかけようとしていた。 

小さな、カブトムシを持った子供の写真に見入っていたのは、一人の青年だ。彼はそういうことをした経験のある子なのだろうか。何かを思い出すようにニヤニヤと笑みを浮かべて、楽しそうにその写真を見つめている。泥だらけになった指先で、カブトムシのお腹の側をレンズに向けて、堂々と映る少年の顔は、たしかに最近は街では見なくなった顔だ。青年もひょっとすると、かなりの田舎の生まれなのかもしれない。いまはなくなった故郷を偲んでいるものの一人なのかもしれない。そう思うと、彼はここでひとしきりニヤニヤ笑いを浮かべた後、どこかでひっそりため息でもつくのではないかという想像が頭をもたげる。それは、彼が、私と同じように故郷の景色を失った人間で有って欲しいという、私の望みなのだろうか。それとも、そうではないのか。あのようなことがあってから、私の頭の中は常にそうした割り切れない想像に苛まれている。かき回された感情というのは、簡単には落ち着かないものだ。たとえ一年たっても、二年たっても、私の心のなかの波風は相変わらず渦を巻き続けるのだろうか。理解や共感を求める感情と、同情を嫌う心の間で揺れ続けるのだろうか。私にはわからないし、答えは誰にもわからないだろう。ただひとつ、はっきりしていることとすれば、誰もが同じようにその答えを求めてあえいでいる、それくらいなことだ。

 

私の写真の前には、開場して暫くの間、立ち止まる人は居なかった。成瀬さんは私の写真をよほど気に入ったのか、一番奥も奥、順路のクライマックスに当たるようなところにおいたので、急いで見に来たような人は、既に終わりに差し掛かり、早足で過ぎてしまうようだった。私は、恥ずかしさからちょっぴり開放されたような気持ちと、こそばゆい残念な気持ちとをいだいて、苦笑を浮かべるしか無かった。私自身も、その日は近所に用事があったので、先に用事を済ませ、午後から再び顔を出してみた。相変わらず、家族写真の前には人がいた。大きな笑顔には、人を引き付ける魅力が、やはり備わっているのかもしれない。ひまわりの前にも、カバンを下げた若い女性が立っていた。カブトムシの写真の前には、その時、人は居なかった。私の写真の前を見れば、暗闇の中、写真から1メートルほど隔てて、腕を組んで立っている人影がはっきりと見えた。私は嬉しくなった。かけ出して、それは私が撮ったんです、と言ってみたい気持ちになった。人に写真を見てもらえるというのは、こんなに嬉しいものなのかと私は自分自身を改めて発見したような気持ちになった。だが私は、同時に、その写真を見つめる人に、あえてそれが私が撮ったものであることを伝える必要はないことも悟っていた。後ろ姿で分かる。あれは夫だ。

 

私は彼の後ろにそっと近づき、横に並びながら、とん、と肩をたたいた。彼は思わず、驚いて振り向き、そして横に立つ私を認めた。私はどんな表情をしていただろうか。おそらく、笑っていたと思う。彼は少し恥ずかしそうだった。照れくさくなったのか、なんとか口を開いた。

「...心がないとか言ってしまったからな」

「気にしてない」

私は笑い出しそうになったのをこらえていた。こんな小さなことを気にしていたのか、彼は!私ははじめから、そのことばに傷つかなかった自分を少し悔やんだ。どうせなら、なにも知らない女子高校生のように、小さな一言で傷ついてしまえばよかったとさえ、思った。それ程に嬉しかったのだ。彼がそんな些細な事も、気にしていてくれたことに。

「印象は変わった?こんな立派なギャラリーで見て」私は意地悪をするような気持ちで言った。

「変わった」彼はポツリと言った。「君は、」

「ん?」「君は、喪失を写したんだな」

彼は、確かにそう言った。「無くなったものだって写せるんだな、写真は」

「どうだか」私はそう言ったが、彼の言おうとしたことはよく分かった。私の写真の廃墟の隣には、広い田園が広がっていた。夏には青い稲穂が清々しく立ち並び、秋には揃って頭を垂れる黄金色の海になる。その光景がそっくりと消えてしまっていた。私の、私の奥底の無意識のようなものは、しかしそれを覚えていた。そして、その光景のよく映る角度で、シャッターを切らせたのだろう。遠くに広がる水平線と、廃墟となる前の加工場、そして、写真全体に広がる、青い稲穂の田園。蝉の音すらも聞こえてくる、私の故郷の、夏の光景だ。

違う土地で育った彼は、その光景を見たのは、私と一緒に里帰りした2度ほどしかなかったはずだ。ほかはお正月しか帰っていないし、その時はその田園を見ていないだろう。私は悔しくなった。そんな写真は、もう残っていない。口でしか伝えられなくなった、かつての風景が、私の喉の奥につかえるようだった。溢れ出る涙で、目の前がぼやけた。廃墟も、何も無くなった陸地も、みんなぼやけて、涙になった。